日常は酷薄だ。
というか、酷薄さを持ちあわせていないと、日常を過ごせない。
地震のことも、原発のことも、化学兵器のことも、誰かが事故にあったり、病気になったり、自殺したり、そういうことを、心に留めてはいても、何事もないかのように、違うちょっとしたことで怒ったり笑ったり、落ち込んだり、このごはん美味しいねなんていいながら生きている。仮にはっとするような事実に気づいて、それにのめり込んで、そこから生き方が変わったとしても、他のはっとするような事実からは距離を置く。日常というのは、そのくらい圧倒的に処理しきれない。
というか、酷薄さを持ちあわせていないと、日常を過ごせない。
地震のことも、原発のことも、化学兵器のことも、誰かが事故にあったり、病気になったり、自殺したり、そういうことを、心に留めてはいても、何事もないかのように、違うちょっとしたことで怒ったり笑ったり、落ち込んだり、このごはん美味しいねなんていいながら生きている。仮にはっとするような事実に気づいて、それにのめり込んで、そこから生き方が変わったとしても、他のはっとするような事実からは距離を置く。日常というのは、そのくらい圧倒的に処理しきれない。
昨年の12月に、加古川の食肉センターで牛の解体を見学した。
胸がえぐられるような気持ちを持ちつつも、人の手でみるみるうちに解体されていく牛を見ながら、「感傷を圧倒する、淡々とした日常」を見た。
胸がえぐられるような気持ちを持ちつつも、人の手でみるみるうちに解体されていく牛を見ながら、「感傷を圧倒する、淡々とした日常」を見た。
そんな圧倒的な日常の中で、僕らは牛と同じような軽さで処理され、そして誰かを処理してる。そういう日常を日々繰り返し、見えない門をくぐり、なんらかの知識や経験を獲得し続けているが、それが真実なのかはわからない。それでも、ただ、生きて、そして死んでいく。淡々とした日常はやはり続いていく。なーんてことを考えながら制作。